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利休と守破離

守破離という言葉も有名になりました。

私が「共著 成功ノート」の中で、間違って紹介してしまったからとは言いませんが、そのままネット上で使われてしまっているのをよく見かけます。


【世阿弥の花伝書の中にある「守破離」を受け・・・】

 

そんな文章を間違えて書いてしまったのが、思った以上にいろんなところで、そのまま書かれており、本の影響の大きさを反省しています。

 

どうもすいませんでした。

 

確かに守破離は、世阿弥に大きく影響しています。
しかし、世阿弥の花伝書の中で紹介されているのは、「序破急」であり、守破離ではありまえせんでした。

守破離と序破急は、意味も違います。

 

ただ、世阿弥の花伝書そのものの中においては、統一したメッセージとして、真似から入り、オリジナルへとなっていくプロセスについて語られてはいます。

 

そしたら嘘か?

いいえ、そうでもないようです。

世阿弥は花伝書を作り、花伝書そのものを要約するとすれば、まさに守破離でした。

 

実は、世阿弥には娘さんがいます。

 

その娘さんと結婚した世阿弥の娘婿さんが、金春禅竹さんという方です。

この方は、一休宗純さんというお坊さんに帰依していたわけです。

 

そうです、なんとあの一休さんです。

 

まぁ、一休さんの弟子が世阿弥の義理息子ってなわけです。

 

 

その関係上、一休さんは、世阿弥とも交流があったようです。
その証拠に、一休さんが住職を勤めたお寺(大徳寺)の境内には観阿弥・世阿弥のお墓がありますね。

 

さて、お話しはそこでは終わりません。

 

この一休さんのお弟子さんでもあり、世阿弥の娘婿でもある「金春禅竹」さん。
一方で、一休さんに帰依していたのが、村田珠光さんという方です。

村田珠光さんと言えば、その「侘び茶の思想」は武野紹鴎に受け継がれ、 その弟子、千利休によってより深められていきます。

 

1400年ぐらいに完成したと言われる世阿弥の「風姿花伝」。
1422年には世阿弥は出家して観世大夫となっています。
そこから、一休さん(1481年没)という友人を経て、
一休さんの弟子、村田珠光さん、そしてその弟子、千利休(1522年生まれ)へと、世阿弥の影響は、受け継がれていったのかも知れません。

 

茶の湯の祖である村田珠光(むらたじゅこう)は「風狂の禅坊主 一休宗純の弟子として」晩年を一休と共に過ごしています。

 

南北朝の分裂、応仁の乱など戦乱が続いた室町は「茶と花と能、これらが禅によって結びついていた」'能禅茶花一味'の時代でした。
珠光は、「一休編集文化圏にいた」世阿弥・金春善竹から能を、池坊から花を、そして心敬から連歌といった影響を受け、特に心敬の'冷えサビ'というコンセプトと茶の湯を結びつけたと言われています。

 

それが千利休によって受け継がれ、
千利休は、歌を詠んだのです。

 

「規矩(きく)作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本(もと)を忘るな」

 

これが守・破・離なんですね。

 

守破離のオリジナルは、世阿弥や一休の影響を受けた「利休」だったというわけです。

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