何者かにならなければ、自分には価値がない

50歳のときに書いたメモが出てきた。
こんなことを書いていた。

 

誰かに愛してもらえるのは、それだけの理由がいると思っていた。

自分を許し、愛していいのは、
許して良いだけの、愛して良いだけの、
それなりの理由が必要だと思っていた。

 だから、その理由さがしこそが、
その資格をようとすることこそが、
私の行動のすべてだった。

だけど、なにかの価値なんてないんだが、私のことを愛してくれる人はいる。

そんな価値ある人間なんかじゃないが、私は自分を許していいし、自分を大事にしていい。

その理由さがし、価値をつくるのも、大事なことだろうけれど、
喜怒哀楽を楽しみ、生きていることを味わい、「いまここ」を生きるのも、とても良いはずだ。

それに気づくのに、50年もかかってしまった。

 

面倒くさいやつだな、と思う。
こいつ、しんどかったんだろうな、とも思った。

 

今になって思うと、経営者には、こういう人が案外いるんじゃないかな・・・。

もっと売上を上げたい。
もっと会社を大きくしたい。
もっと認められたい。
何者かになりたい。

もちろん、それは向上心でもある。

でも、その奥のほうに、

「何者かにならなければ、自分には価値がない」

みたいなものが、ひっそり隠れていることもある。

 

 

何かができる。
何かを成し遂げる。
人から認められる。
必要とされる。
仕事で結果を出す。

私も、そういうものを積み上げることで、
「これなら自分を認めてもいい」
という理由をつくろうとしていたのかもしれない。

 

私は、「あなたは存在するだけで価値があるのよ」みたいな綺麗ごとで書いてない。

別に大した価値なんてないような、クソみたいな私だとしても、自分まで自分をいじめなくていい。

 

もちろんね、
自分の価値をつくろうとすることも、
何かを成し遂げようとすることも、
頑張ることも、それはそれで大事だし、私はたぶん、これからもそうする。

 

だけど、「自分には価値がある」と証明するためだけに、人生を使わなくてもいい。

 

喜怒哀楽を面白がる、
むかつけば腹を立てるし、
楽しい時は笑うし、
うまいものを食う、
ドライブを味わう、
畑でぼーっとする、
そうやって一日を味わっても良い。

 

それに気づくのに50年もかかってしまった・・・か。

 

あれから8年。

ちゃんとそうやって生きられてるかどうか知らんけど。

忘れないでおこうと思う。

 

 

 

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