『嫌われる勇気』を素直でなく読んだメモ
だいぶ前に読んだメモですが・・・・
アドラーはトラウマを否定。 (いや、あるだろ佐藤)
正確に言うと、アドラーは、「過去の出来事が、現在の自分を決定する」ということを否定しています。
「○○(過去の出来事)があったから、こうなった」ではなく、
「将来・今の目的のために、○○という過去を使っている」とか、
「将来・今の目的のために、○○という過去に、都合よく意味づけている」と考えます。それがアドラーの考え方だと思います。
考え方としては面白い。
でも、
いや、人間そんな単純じゃないだろ!というのが私の感想でした。
トラウマはあるだろうし、育った環境だって大きく今を決めています。
人間はそんなに自由ではありません。少なくとも私はそう思う。
私は、それよりも、
今の自分が、過去の何に大きく影響を受けているかを知れば、少し自由にはなれる。
こっちかなー、という感じです。
大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
これには、かなり共感。
生まれ持ったものも、育った環境も、起きてしまったことは変えられません。
でも、
そこから何をするかは考えられます。
何が足らないか?よりも、今足りているものでどうするか? 私はそれがサバイバルに役立つと思ってます。
すべての悩みは「対人関係の悩み」である。
これも、
なるほど。かなりそうだな・・・とは思います。
でも、
すべて? えー全部か?と反応してしまいました。
だってさ、病気もあるし、老いもある。死もある。身体的な苦痛だってあるでしょうよ。
アドラーは時々、言い切りが強すぎる。
(まぁ、そこまで言い切るからこそ、刺さる人が多いんでしょうけど・・・)
世界をひとつの原理だけで説明しようとすると、ちょっと無理があるんじゃないかなぁ。
課題の分離
これは、
「これは誰の課題なのか?」を考えるということです。
その選択によって生じる結果を、最終的には誰が引き受けるのか?
その、引き受ける人の課題であるということらしいです。
もっとわかりやすく言うと、自分が何をするかは、自分の課題です。
相手がそれをどう思うかは、相手の課題です。
これでもわかりにくい・・・。
例えば、こんなのがあります。
必要なことを適切に伝えるのは上司の課題。
その上司を「うるさい奴だ」と思うか、「言ってくれてありがたい」と思うかは部下の課題。
部下に嫌われたくないから必要な注意をしないなら、他人の課題に自分の行動を支配されている。
親は「勉強しなさい」と言い続ける。でも、勉強しなかった結果を最終的に引き受けるのは子ども。だから勉強は基本的には子どもの課題。
親の課題は、環境を整えたり、必要なら助言したりすること。
親切にするかどうかは自分の課題。
「親切をありがとう」と言うかどうかは相手の課題。
「これだけしてやったんだから感謝しろ」となった瞬間、相手の課題に踏み込んでいる。
課題の分離というのは、たぶん、そんな話です。
これだと話はシンプルに見えますが、これが実は、そんなに簡単じゃないんです。
例えば、「SNSにこんなことを書いたら、嫌われるかもしれない。だから本音は書かない」というのは、アドラー的に言うと、「他人が自分をどう評価するか」という他人の課題によって、自分の行動を決めているとも言えるんです。
これ、だんだん話がややこしくなってきて、頭痛くなりません?
ところが、「相手がどう思うかは相手の課題だから、俺は何を言ってもいいでしょ」とはなりません。
「何を言うか」「どう言うか」「その発言によって生じる自分側の結果を引き受ける」のは自分の課題だからです。
つまり課題の分離は、「他人なんて知ったことか」という思想ではないんです。
私の頭が悪いからか、これを理解するのに、嫌われる勇気のこの部分、何回も読みました・・・笑。
でも、今でも理解できてるかわかりません。
嫌われる勇気
結局、「嫌われろ」という話ではありません。
誰からも嫌われないように生きようとすれば、結局、みんなの期待に合わせる人生になる。
自由に生きようとすれば、誰かから嫌われる可能性を引き受けなければならない。
それを、「嫌われる勇気」だと言ってるわけです。
◆自己肯定ではなく、自己受容。
これはいい言葉だなと思います。
できない自分に対して、
「私はできる」「私は素晴らしい」と無理に言い聞かせる必要はない。
できないなら、
「今の自分には、これはできない」
でいい。
そのうえで、どうするかを考える、という事だと理解しました。
出来ないのは駄目なことじゃない。
良いも悪いもなく、ただ、出来ない、というだけ。
そこから出来るように工夫・努力をするか、出来ないまま放置するかを選べば良い。
肯定的なあきらめ。
自分自身によって、変えられるものと、変えられないものを見極める。
変えられないものは、あきらめる。それは投げやりになるという意味ではない。
変えられないものを受け入れることで、変えられるものに集中する。
これも、かなり共感しました。
競争については、少し違う意見です。
アドラーは他者との競争から降りることをかなり強く勧めています。
他人を敵ではなく仲間として見る、それはわかります。
でも現実には競争もあります。
商売には競合がいる。
資本主義には競争がある。
スポーツにも競争がある。
株式市場だってそう。
だから、
「競争なんてしなくていい」
とは思わない。
私なら、
競争はある。でも、競争だけを人生にしないほうがいい、くらいだろうな、と思います。
ダンスを踊るように生きる。
◆人生を線として考えない。
「大学に入ったら」
「成功したら」
「金持ちになったら」
「会社が大きくなったら」
「何者かになったら」
そこに到着したときに人生が完成する、と考えてしまうと、そこまでの人生は全部「途中」になります。つまり、人生の大部分が準備期間になってしまいます。
だから、人生は山登りではなく、ダンスだと考えます。
山登りなら山頂という目的地がありますが、ダンスは、どこかに到着するために踊っているわけではありません。
踊っている、その瞬間に成立しているからです。
過去でもない。
未来でもない。
人生は「今、ここ」の連続。
何者かになった未来だけを人生だと思わないという考え方。
今やっていること自体が人生。
だからこそ、ダンスを踊るように生きる。
これは、いいなぁ、と思いました。
何か大きなことを成し遂げたら、ようやく人生が完成するわけではありません。
今日、面白いことを考えた。
仕事をした。
誰かの役に立った。
好きなことをした。
それなら今日という一日は、今日だけですでに成立しています。
結局、私はアドラーに共感したか?
うーん、私は、アドラーの人間観に対しては、
ところどころ、「いや、人間そんな単純じゃないだろ」と反発したくなります。
でも、アドラーの人生観には、かなり共感します。
特に、
変えられないものは受け入れる。
変えられるものについては、自分がどうするかを考える。
他人の評価のためだけには生きない。
なにか到達した未来をゴールだと思わず、今やっていること自体を人生にする。
このあたりは、かなり私は共感します。
「おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きる」これは樹木希林さんの言葉だと言われています。
私はこの言葉が好きで、アドラーの人生観に、かなり近いのじゃないかな、と思いました。
人間はそんな単純じゃない。
人生にはどうにもならんこともある。
だったら、どうにもならんものまで何とかしようとせず、面白がって、平気に生きる。それでいいのかなぁ、と思っています。
それにしても、「嫌われる勇気」という本は、こんなにメモした本は数少ないです。
